伊勢神宮解説

概要

一般的には「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しく呼ばれ、辞書やメディアなどでは「伊勢神宮」と紹介されているが、正式名称は単に『神宮』である。 神宮と言えば伊勢神宮を指し、検索でも最初に表示される。

全国に1万8千社ある神明神社の総本社であり、日本の約8万社の神社を包括する宗教法人『神社本庁』では、神宮が古来より至高至貴神社であるので、 全国の神社の総親神として本宗と仰ぐ。

全ての神社には社格という定められた格式が与えられている中、神宮には社格がなく、文字通りの別格として定義されている。伊勢の地が神都と呼ばれ、 神宮が神道の核を為す聖地とされる由縁である。

神宮とは、皇大神宮(こうたいじんぐう,通称:内宮(ないくう))豊受大神宮(とようけだいじんぐう,通称:外宮(げくう))の二つの正宮のほか、 伊勢市からも離れた4市2郡に跨る別宮、摂社、末社、所管社を含めた125のお宮(神社)からなる総称である。

創祀

日本書紀によると、天照大御神が宿る御神体の八咫鏡(やたのかがみ)は、当初宮中にて代々天皇により祀られてきた。第10代崇神天皇の時代(紀元前97〜29年頃)に、 大和の笠縫邑にて豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が祀ることとなり、その後、第11代垂仁天皇の時代(紀元前29年〜紀元69年頃)に御杖代である 倭姫命(やまとひめのみこと)が新たに八咫鏡を奉祀する土地を探すことになった。倭姫命は大和、伊賀、近江、美濃の国など、20もの土地を巡った後、 垂仁天皇26年に伊勢の地に辿り着いた。

倭姫命が八咫鏡を抱え伊勢の地を通った時に、『この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)の帰(よ)する国なり、かた国のうまし国なり、 この国に居(お)らむとおもう』との天照大御神の御宣託があり、約2000年前に伊勢の国の宇治にある五十鈴川の川上に社を築いて鎮座し、磯宮と呼ぶようになった。 この磯宮を朝廷が崇拝するところと成り、現在の神宮に至る。

御神体

八咫鏡(やたのかがみ) 天照大御神の御神体で、三種の神器のうちの一つ。2000年間一度も滅失した記録がない。 光華明彩(ひかりうるわ)しくして六合(あめつち)の内に照徹らせり、または、国の内に隈なく光が照り徹るとされる。

八咫鏡の所有者である天皇陛下さえも、その御鏡をご覧なさったことはない。八咫鏡を見た者は祟られて死ぬとされており、御袋に包み木箱に収められて 厳重に安置されている。かなり大きなもので、その重量も複数人でやっと持てるものと伝えられる。

天照大御神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が拵えたという神鏡で、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が踊りを舞い、何事かと思った天照大御神が 岩戸を開いて、「貴方より優れた神が顕れて、御名で喜んでいる」といわれ「何か怪しい」と更に岩戸を開いて「その神の御姿を見られよ」と天照大御神のお姿を映し た八咫鏡を見せ更に岩戸を開いて、表に出た所を天之手力男之神が力一杯天照大御神の御手を引っ張って天ノ岩戸開きをした。

主な宮社と祭神

皇大神宮(内宮)

主祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ)

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)によって生み出された三貴子の一柱である天津神。八百万の神々の中心的存在で、太陽を神格化した女神。 高天原(天上世界とその一部である地上世界)の主宰神(統治者)であり、世に光と秩序を与え、五穀豊穣、安寧をもたらすとされる。

相殿神
天手力男神(あめのたぢからおのかみ)

東に一柱。天照大御神がお隠れになった天岩戸をこじ開け、天照大御神の御手をお引きになった天津神で最も地力が強いとされる男神。筋力や腕力の象徴、 力の神、スポーツの神様として信仰される。

万幡豊秋津姫命 (よろづはたとよあきつひめのみこと)

西に一柱。天照大御神の御子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ女神。織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる。

豊受大神宮(外宮)

皇大神宮が伊勢に御鎮座してから約500年後に、『丹波の国の比治(ひじ)の真名井(まない)の原という所にまつられている豊受大神を御饌(みけ)つ神として 私の近くによんでほしい。

一人では大御食(おおみけ)(お食事)も安心して食べられない』と天照大御神から雄略天皇への神示があり、丹波の国から伊勢の度会の 山田原にお迎えして御宮を建てられたことが、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の由緒である。伊勢神道(度会神道)は、豊受大御神をお祀りする外宮が内宮より 至上の神社と考えた。

豊受大御神が天照大御神の大御気を司る神であることから外宮だけにあるのが御饌殿(みけでん)。毎日朝夕の二度、神々に御食事を用意する 日毎朝夕大御食祭(ひごとあさゆうおおみけさい)、通称常典御饌は、1500年以上前から、一日たりとも欠かさず営々と続けられている日本(世界)最長の祭事。

忌火屋殿(いみびやでん)は神様の御気を調理する台所とされる。忌火とは「特別な火」の意味ですべての神事や宮中で使用される清浄な火であり、 外宮では弥生時代に発明された「舞錐式発火法」で火をきりだす「御火鑽具(みひきりぐ)」を使用して、神饌(神様の食事)を調理する忌火を現代でも起こしている。

また、神様にお供えする御料水は、毎朝、上御井神社(かみのみいのじんじゃ)から汲んでおり、この御水は、高天原の天の忍穂井(あめのおしほい)から移されたと伝えられている。

主祭神
豊受大御神(とようけのおおみかみ)

天照大御神の大御食を司る御食津神。また、衣食住あらゆる産業の守り神として厚く信仰され、とりわけ食物・穀物を司る女神。

相殿神
御伴神(みとものかみ)

三座。東に一座、西に二座。天照大御神の専属総料理長である豊受大御神をサポートする。 一説には田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命という宗像大社関係の三神が祀られているとされる。 (この三神は天照大御神と素戔嗚尊の御子で、 豊受大御神とともに丹後から遷られたとされている。或いは、天津彦々火瓊々杵尊、天児屋根命、太玉命。

式年遷宮

神宮では、20年に一度神宮式年遷宮(式年遷宮)と言う、社殿・御装束(おんしょうぞく)・御神宝(ごしんぽう)を全く同じ形で新造し、 、 御神体を新しい御正殿に移す儀式『遷御の儀』が1300年に渡り連綿として執り行われている。簡単に言うと、『神様に全く同じ形の新居にお引越し願う儀式』であるが、 紛れも無く日本国の最重要祭事なので、神々にリフレッシュしてもらうための並々ならぬこだわり振りが発揮される。 飛鳥時代の7世紀から原則20年ごとに行われた伊勢神宮の式年遷宮だが、朝廷の力が落ちた中世になると、遷宮のための多額の費用と時間を捻出できなくなった。 しかし、織田信長が天正13年(1585年)の式年遷宮を計画し、1582年に本能寺の変で討ち死にする。それを家臣であった豊臣秀吉が実行し、天下人が変わった徳川家康が 継続させた。戦国時代に式年遷宮を復活させたのは、何を隠そう彼ら戦国三傑武将である。

準備期間……約8年 / 総工費……570億円以上 / 使用する御用材……ヒノキ1万本 / 1300年前と変わらぬ宮大工の工法 一新される御装束や御神宝。それらは714種、1576点を数え、内宮と外宮の両正宮と14の別宮に奉献される。人間国宝ら当代随一の名工、名匠が、数年から十数年をかけて 丹念に作り上げる。もちろん、全てボランティアでの制作。

建築様式

神宮の建物は『唯一神明造り(ゆいいつしんめいづくり)』といい、出雲大社の大社造とともに、日本最古の建築様式を伝える。ヒノキの素木を用い、 切妻、平入の高床式の穀倉の形式から、宮殿形式に発展したものである。屋根は萱で葺き、柱は掘立、全て直線的である。屋根の両端には内削(水平切)の千木が高くそびえ、 棟には10本の鰹木が列び、正殿を中心にして、瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣の4重の御垣がめぐらされている。 正殿のお屋根は萱葺で、両妻は直径79cmの太い棟持柱が支えている。 その棟には屋根の重しである鰹木が10本列び、その東西両端、破風板の先端が屋根を貫いて、千木になっている。内宮では、千木の先は水平に切られていて、 これを内削(うちそぎ)という。

神宮の基本知識とマナー

『神宮』とは、『天皇』が、『天照大御神様』に、『日本国民一人一人の幸せを願う天皇祭祀の場所』のことです。

伊勢神宮の最も重要な規定は『私幣禁断』。つまり、個人的な願いをかなえようと手を合わせてはいけません、お賽銭を投げてはいけませんということ。

一般の家に例えると「門」にあたる鳥居は、くぐる際は必ず脱帽し一礼します。神宮では、ペットの同伴は禁止されています。 宇治橋や神域に架かる他の橋、御正宮へと続く玉砂利の敷かれた神苑、それらの道の中央を歩かないようにしましょう。中央は 「正中」と言い、憚られます。 参拝時も正面に立つのではなく、少し脇に寄って二拝二拍手一拝をしましょう。

用語解説

  • 御装束(おんしょうぞく)
  • 式年遷宮で建て替えられた社殿内を飾り立てる奉飾品や服飾

  • 御神宝(ごしんぽう)
  • 神々に捧げる武具や楽器などの調度の品々

  • 化成(かせい)
  • 形を変えて他のものになること

  • 新嘗祭(にいなめさい)
  • 収穫祭にあたるもので、11月23日にその年の収穫に感謝する。